新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

モチベーション上がらず、出発前に敗退

2026年10月29日 曇り 6/14℃

東北の山に日帰りするつもりで準備をしたが、直前で気が乗らなくなって取りやめた。代わりにというわけではないが、いつものトレーニングで日和田山周辺を歩き回った。

今日は高指山スタートで東尾根を下り、北から日和田山に登り、北の巻き道から日和田山と高指山の間の稜線道に出て戻った。久しぶりのルートでちょっと勘違いした。

入り口は高指山階段上の柵の手前を左。柵を200度くらいくるっと回って尾根を下るIMG_6119

尾根のT字分岐を南に踏み跡を辿る(北に進むと林道の最奥の家の前に出る)IMG_6121

大下りして平坦な尾根になったら、尾根を外れて南に下る。黄色い三本の杭が目印IMG_6122日和田山北の巻き道(勝手命名)に出ると対岸にこの大岩があるIMG_6124

道をちょっと下ると、昔から変わらない目印があるIMG_6125

目印から南の溝の様な小沢のここが登り口。両岸に程よいスタンスがあるIMG_6126

5m位西に赤テープがあるが、登路としては間違い

日和田山北尾根を登る(日和田山北尾根は勝手命名)、日和田山の登りでは一番急IMG_6128

山頂を経由して金毘羅神社上の西展望台から毎度おなじみの大岳山IMG_6130

気まぐれな日和田山の山つつじが咲いているIMG_6133

女坂の途中、宝篋印塔があった所から清流に下る(写真右に小道がある)IMG_6134

今は休憩所となっているこの広場に、昔はおそらく東屋の様な建物があって、講や修験が利用していたと想像している。初めて訪れたころはまだ奥の手すりの脇に宝篋印塔がちゃんと立っていたが、今は崩れている。

清流から日和田山北の巻き道を通って高指山に戻る。

清流地内の路傍の石仏IMG_6138

この道は、かつては清流から宿谷を通り、毛呂に抜ける近道だった。

ここが現在の日和田山北の巻き道の入り口分岐IMG_6139

すぐに神社の前を通ってIMG_6140

十字路に出る。まっすぐはさっき登った北尾根の上部に出る。右が巻道IMG_6141

稜線道に出るため、ここで間違えて左に登った(道が完全に流失したと思っていた)IMG_6144

実際はさらに直進して、ここを左に曲がる明確な道跡を辿るとすぐ稜線だった(戻って確かめた)ここには直進する踏み跡もあり、旧道は直進して高指山下に直接出るIMG_6145

高指山下には講の方々が宿泊する坊のようなものがあったと言われている。実際に少し広い平地が今も藪の中に残っている。

本日のログログ日和田山高指山

東北の山は昨日雪が降って、行けば薄い初雪を踏めた。装備も食料もそろえて、ガソリンも満タンにしてきたのに、急に意欲が下がってしまい、結局中止にしてしまった。要因は何だろうか。ロングドライブか、熊への恐れか、スタッドレルに履き替えていない事か、何だろうか。日和田山界隈をいくら歩いても代わりにはならないが、誰も居ない、何もない里山を、何の緊張もなくただ歩けるという事が、案外楽しいと思えるのはなぜだろうか。

肩の腱板断裂からそろそろ6年。以来岩トレは行っていないが、今日は途中の岩で斜め懸垂なんぞをしてみた。

今日の写真は携帯。カメラを持って行ったが、電池が入っていなかった。

コウヤボウキが見頃の物見山

2026年10月27日 曇り

先日の権現岳が体に堪えたらしく、膝が浮腫み気味になっていたが、なんとか痛みなく歩けるようになったので、最短・最楽トレーニングコースの物見山を往復した。

コウヤボウキ、いつの間にかこんなに咲くようになっていた。間伐のおかげかIMG_8696

たった1枚の紅葉。周りを見回してもみどり一色なので不思議IMG_8697

物見山三角点から広場に戻る 杉木立の間にちょっと色着くコナラIMG_8699

ナラ枯れで枯れた大木IMG_8701

気になる石柱。物見山とヤセオネ峠の間に有り「一」とだけ読めるIMG_8702

この界隈のコナラやクヌギの大木は、ほとんど全てと言ってよいほどナラ枯れにやられてしまい、倒れるときを待っている状態。カシノナガキクイムシとナラ菌の連係プレーの結果だ。続いているのが桜、白紋羽病・紫紋羽病・ナラタケ病などはぼちぼち見かけるが、最近では特定外来生物のクビアカツヤカミキリが脅威だ。日和田山には山桜も多いので、これも枯れたら、いったいどんな植生になってしまうのだろうか。熊も心配しているかも。

奥利根ゆけむり街道

2026年10月21日 曇り

所用で沼田に行ったので、前から気になっていた「奥利根ゆけむり街道」の県道63号を車で通過。湯ノ小屋温泉から鳩待峠分岐ぐらいが紅葉真っ盛りだったが、途中の坤六峠付近ではもう終わっていた。

楢俣ダムは紅葉一歩手前IMG_8673

写真の腕のせいもあるが、ちょっと地味目な印象IMG_8676

ダムの上の斜面にコンビの紅葉IMG_8677

なかなかきれいだったが、日が差さないと写真では色が出せなかったIMG_8678

坤六峠、なんでも開通した時の知事の名前、坤六さんからもたった名前らしいIMG_8680

至仏山IMG_8688

遠い昔に尾瀬から登った記憶がうっすらある至仏山、その後楢岐川側から、あるいは春スキーで何度か計画したものの、いまだに第二登を果たせていない。

岩井堂観音

2026年10月13日の訪問 曇り

霞丘陵の西端の成木川の右岸に、旧岩淵村の村名となった岸壁があり、中腹にお堂がある。浅草の浅草寺と関係があるお堂、岩井堂観音にお参りした。

富岡入間線の都県境の飯能側に入り口がある(都方向を見る)IMG_8625

上り階段と下り階段があるのでまず登ってみる

鳥居と祠が2つ、放置されたお稲荷さんのようだが一応お参りするIMG_8626

右側に壊れそうな階段があるので行ってみるとIMG_8627

岩にトラバース道IMG_8630

上に登れそうなのでIMG_8629

岩の上から、酉谷山方面だが同定できずIMG_8628

下るIMG_8631

お堂の脇に出る。後ろが岩屋になっている。お参りしてIMG_8632

更に下るIMG_8633

階段に出る。登りきると出発点IMG_8634新編武蔵風土記稿岩淵村の項に
「村の西成木川の南岸岩盤の中腹に堂あり是を土人岩井堂と伝厳堂のよこなまりなるへし盤岩高さ五六丈【約15.15メートルから約18.18メートル】その下に深淵あり、村名の起こり是によるものならし」
寺社の項に
「岩井堂 成木川の南岸にて厳上に建てり堂二間【3.6m】四方正観音を安す村持なり。岩の高さ五六丈岩下に淵あり平水深さ一丈二三尺【3.6m〜3.9m前後】はかりしその図左の如し」とある。

入間郡誌には(大正2年刊行、今から113年前)
「およそ1300年前(推古天皇の時代)、ある旅僧がこの岩山に籠もり聖観音像を安置したのが始まりとされます。その後、激しい嵐によってお堂が崩壊し、観音像は目の前を流れる成木川(入間川上流)へ転落しました。川に流された観音像ははるか下流の浅草浦(隅田川)まで流れ着き、宮戸川で漁師の檜前浜成・武成の兄弟の網によって引き揚げられたとされています。これが現在の浅草寺の本尊の起源であるという「浅草観音発祥の地(故郷)」の伝説が記述されています」とあるそうです。

この入間郡誌がきっかけとなったのか、大正13年に地元の郷土史家によって『浅草観音御本地岩井堂縁起』という本が自費出版されたそうで、これを信じた地元の有志たちの間で「我が町の岩井堂こそが浅草観音のふるさとである」という事になり、盛り上がって地元の政治家や名士たちが動き、東京の浅草寺へ「ぜひ分身を飯能へお迎えしたい」と熱心に働きかけを行ったそうです。
浅草寺の起源にも観音像を拾ったという伝承があるので一応つじつまは合う。そこで当時の浅草寺のトップであった大森亮順(おおもり りょうじゅん)二十四世貫首は、この飯能側の熱意を快く受け入れて、「大暴風雨で浅草に流れてこられた観音様が、1300年の時を経て故郷の飯能へお帰りになるのは非常にめでたいことだ」として、公式に分身の聖観音立像を制作し、飯能へ奉還することを決定した。そうして建てられたのが、現在の堂そのものだそうです。

伝承は信じられないけど、まあ、いい話だし、浅草寺の懐の深さを感じます。さすが古刹だけの事はあります。

そこでどうしても気になってしまうのが、最初にここにやってきて、岩井堂観音の開設者となる、のちに流される観音像を安置した「ある旅僧」の存在でしょうか。
推古天皇の時代は593年~628年の35年間(飛鳥時代初期)。仏教伝来は6世紀半ば(538年または552年)とされるため、国内に僧が存在したことは確かだが、当時はまだ学僧の時代だった。都の学僧がこれほどの辺境まで足を運んだとは考えにくい。また、役行者(634年〜701年)の生誕前であるため山伏でもない(山伏が僧と結びつくのはさらに後世の話)。となれば、この「旅僧」の正体はいったい何だったのだろうか。
場所柄「高句麗の僧」という線も、高麗郡の建郡が奈良時代の霊亀2年(716年)であることを踏まえると、時代が噛み合わない。
唯一可能性があるとすれば私度僧だが、初期の私度僧は都周辺の豪族や民衆が中心だったが、680年には取り締まりの対象とっている。急増されたとするのは700年以降になってから、主に庶民が重税逃れのためとされる(僧は無税)。山伏の発祥もこのあたり起源があるのではないかと推測しているが、いずれにせよ、「ある旅僧」と推古天皇の時代とを結びつけるには、どうしても無理がある。

 

そういう面白い場所です。

阿須丘陵 岩淵の秋葉神社

今日は七国峠道から北の岩淵集落に下る妙円寺への道(仮称妙円寺道)と秋葉神社(仮称秋葉道)への道を歩いた。ルートは妙円寺道を登って秋葉道を下る。

妙円寺の駐車場をお借りして、稲荷神社を北から巻いて南の阿須丘陵に向かう。ここからが山道(右に行けば岩淵八幡神社はすぐ、丘の中腹にある)IMG_8636

アザミが咲いて秋らしいIMG_8637

ツリフネソウは初めて見た花IMG_8641

ミゾソバ、左下に一輪開花IMG_8643

左の沢の石を敷いたと思われる路面と浅いが左右の切堀IMG_8645

稜線道に出る(振り返り)やはり七国峠方向に向いて合流しているIMG_8647

秋葉道へは道標があるIMG_8649

こんな尾根道、杉だらけIMG_8651

昭和の拡大造林前は丘陵全体がこんな林だったのだろうIMG_8653

秋葉山に向かう(右)IMG_8655

先ほどの分岐から秋葉山をほぼ180度回って鳥居に上がる道IMG_8657

お参りして更に下ると岩淵八幡神社の参道に出る。左奥に拝殿が見えるIMG_8659

参道を下って村の道を県道まで出ると「村社八幡神社」とあるIMG_8662

今回歩いた道は比較的新しく、妙円寺道は旧図の2.5万図の大正12年(1923年)図から掲載されていて「小径 道幅1米未満」とある。秋葉道はさらに新しく昭和33年(1958年)図から記されている。

ログIMG_6107

ではなぜ歩いたのか?現代地図には神社がないのに、Googleearthでは秋葉神社があったので、実際にはどうなっているのかを確かめたかった。それにこのエリアの秋葉神社は新編武蔵風土記稿の社寺の項に記載がないという不思議もあって。

秋葉神社は神仏習合神で、修験道の神だ。修験道は霊験あらたかで、いろんなことに霊力を発揮するが、秋葉様は防火の専門職だ。

この地域に秋葉様がブレイクするのは、浅間山の大噴火や江戸の大火の影響らしい。

入間郡誌という1913年(大正2年)に出版された地方誌の八幡神社の項に「八幡神社入山にあり、創立年月不詳、元歓喜寺別当たり。明治四十年八月字岩井堂の無格社秋葉社を合祀す。秋葉は天明四年三月の創立也。」とあるそうなので、1784年の創建(その根拠は分からない)。

風土記稿が編纂される前からあることが分かる。それなのに記載がない理由は、社寺として認められていなかったからではないか。

慶長18年(1613年)の幕府の修験道法度により、全国を自由に渡り歩いていた修験者が行動制限を受け、「里修験」として村々に定住。村が見渡せる場所に祈祷所(お堂)を作り、祈祷を行うようになった。身分は真言宗または天台宗の修験僧なので、山の上のお堂は坊なのだと思う。独立した寺や神社としては認められてはいなかった。修験道の私設の堂、あるいは付近の寺の付属だから風土記稿では取り上げていないのではないかと。

また地図から消えた理由は、明治期の受難

神仏分離令(明治元年/1868年)によって、もともと正式な僧侶の修験は僧に、僧籍がない大多数の修験は神職に転職するか、多くは平民になった。ただ一部の勢力が修験宗のような概念を持ち出してきたため、その5年後には修験宗廃止令(明治5年/1872年)を出して修験を根絶した。神官になった人たちも、神社合祀政策(明治39年/1906年)によって影響を受けたろう。当然修験の堂や坊は主を失った。

この流れの中に岩淵の秋葉様も巻き込まれて、明治40年(1907年)に八幡神社に合祀されたので、山上の坊は不要になった。地図に反映されたのはその16年後となり、大正12年図から修正・消去された。

その後神仏合祀はやりすぎじゃないかとの声が起こり、大正9年(1920年)に「神社合祀無益」の決議を国会(貴族院)が行い、合祀が止まるが、岩淵の秋葉様には間に合わなかった。だが、太平洋戦争の敗戦によって、昭和20年(1945年)に米軍のGHQから「神道指令」が出て、日本政府の神社政策が廃止されると、熱心な方々により合祀された神を分離する事が行われて、秋葉神社が復活することになる。でもなぜか国土地理院地図は復活した神社を記載しなかった。

国土地理院の言い分は、神社の本殿があるものには鳥居マークを記入するのだそうで、考えが大正期から変わっていなければ、合祀前の秋葉神社には本殿があったという事になる。今の物は鳥居があっても確かに祠程度になっている。という事は最初は堂か坊(現在と同じくらいか?)だったものが、その後大きくなって、本殿がある立派な神社になっていたという事か?現在の物は小さな本殿を風雨から守るために、少し大きな東屋風建物の中に格納している構造なので、確かに地図への記載は無理そうだ。

岩淵集落の北西にも2社の秋葉神社があり、似た境遇を体験してきているようだ。

苅生の秋葉社(風土記に記載なし/現在地図に鳥居マーク有)

・古来より苅生村の東部字東の入赤根ケ峠頂上付近に鎮座(旧図にもある)
・春の大祭当日拝殿前に立てられる明和五年(1768年)と記載された幟がある
・明治四十年四月二十五日大字下直竹南高麗神社に合祀された
・終戦後昭和二十一年二月二目、神社制度の廃止に伴い分祀
・昭和四十二年十一月竣工、同日遷座大祭を執行鎮座
・平成五年社殿の大改修を行い十一月に完成した。
・元の場所は赤根ヶ峠とその西のP225との中間あたり、近くに不動尊の石碑あり

上畑の秋葉神社(新編武蔵風土記稿に記載なし/現在地図に鳥居マーク有)

・明治45年畑神社へ合祀
・昭和21年畑神社より分祀、同年新たに社殿を建立
・元の場所は北に上がったP219辺り

他にもあると思われるが、合祀されたままなのだろう、もう調べる気力はない。

熊笛と熊避けスプレー

2026年10月8日 晴れ

熊対策グッズを購入した。一つは笛、もう一つは本命の熊スプレー

購入品はこれ、笛とスプレーIMG_6094

笛:意図しない遭遇を避けるために

熊避け用の音物は、電子ホーンや空気圧式ホーン、ベルなどいろいろあるが、電池などが不要で濡れても問題なく、携帯しやすいという理由で笛を選んだ。

【プロ登山ガイド北村氏監修】 熊よけホイッスル 大音量 120dB コンパクト 登山 アウトドア ブラック タイコーストアー という商品。

音が大きく耳が痛くなるので、両耳を指でふさいで吹く。

スプレー

環境省の推奨では

「人命を守るための目安としては、①噴射距離:8m以上、②連続噴射時間:6秒以上、③容量:215g以上、④カプサイシン&カプシノイド他は1~2%(よく効くのは2%)が最低限の基準となります。」

選んだのは「UDAP製 熊撃退スプレー EPA認証 (アメリカ森林警備隊装備品) 専用ホルスター付 225gオレンジ缶」というもので、仕様は

サイズ: 7.9 oz
ブランド    Pepper Power
商品の寸法    5.3幅 x 21.8高さ cm
商品の重量    224 g
容量    7.9 オンス
商品のハイライト    有効成分:カプサイシノイド高濃度配合

上記から有効成分や噴射時間がわからないが、EPA認証ということなので信用して注文した。結果は環境省推奨基準をクリア

有効期限を一番心配したが、ネットでの評価通り、距離、噴射時間もOK

(2030年12月、12m 7秒)IMG_6097

有効成分もOKIMG_6100

安全クリップは、親指で外せるし、外したクリップにはゴムひもが付いていて、なくすこともないIMG_6095

操作説明IMG_6096

唯一残念なのはホルスター。ズボンのベルトにつく仕様になっているので、ザックが無ければ全く問題ないが、ザック背負うと、腰ベルトにポケットが付いているので抜き差しが出来なくなる。ポケットがないところでは前過ぎて歩きにくい。肩ベルトも最近はパットが入っていて幅も広いので、つけるならパットが終わった下の方だが取り出しにくい。

悩んだ末にカメラ用のウエストポーチを肩に斜めがけしているそのベルトにぶら下げて歩いた。さっと取り出せるかは少し疑問だが仕方がない。でも普通の人はウエストポーチなど斜め掛にして歩いている人はなかなか見ないので少し困るのではないか。また、スプレー缶はカメラより重いので常に重さを感じてしまいちょっと不便だし、藪漕ぎで安全ピンが外れる恐れもある。その内どこかに補助ベルトでもつけて胸の低い位置につけられるようにしてみたい。その意味でホルスターのベルト掛の部分が水平・垂直取付両対応の物がよろしいのではないかと思っているが、実際は手に取ったことがないのでわからない。

また、このホルスターは、通常は抜けて落ちないようにピッタリサイズで、断面が「C」型のため、ホルスターを握るとスプレー缶が取り出せなくなるので、取り出しの動作に慣れが必要だろう。子供の頃の西部劇の早打ちマックやビリーザキッドのように素早く打てるように。

八ヶ岳横断 西岳、権現岳

2026年10月6日 晴れ午後山頂部はガス気味

西岳への船山十字路からの道、バリエーションルートと思っていたら、「舟山十字路サーキット」というトレランルートになっているらしい。数年前の冬に青年小屋付近で幕営した時に遇った人が登ってきたルートで、そのとき興味を持った。

阿弥陀聖水IMG_8552昔は旭小屋裏から南陵に上がったので通り道。十字路にテントを張った時も水はここまで汲みに来た。せっかくなので一口頂く

旭小屋まで普通の林道だったのにすっかり崩壊していた(渡っての振り返り)IMG_8556

登山道入り口には道標があるIMG_8557ここにゲートがありチェーンが張られていたが、道がなくなったので必要なくなった。

おいしそうなタマゴタケIMG_8560

この辺りから旧道になる。道標には「立沢に至る 西岳に至る」とあるIMG_8572

これは古い道標。よく見ると赤い塗料のマーキングがあるIMG_8575

やっと西岳到着、緩いがなんだか疲れる道だったIMG_8582

マツムシソウのお出迎えIMG_8583

ギボシ、権現は右ピークの後ろIMG_8588

コケが光を受けてIMG_8590

乙女の水はうまかった(小屋の水場)IMG_8591

ギボシ中間の平場から、ノロシバ、青年小屋と編笠山。残るはバンドのトラバースIMG_8599

晴れた権現岳は初めて。岩の基部の祠に気が付いたのでお参りしたIMG_8606

権現岳を振り返る。ガスが出始めた。もっときれいなのに写真で表現できずIMG_8607

前三ツ頭の三角点。広い平地があるIMG_8616

天の河原IMG_8619


ロープウエイを使って紅葉などと思っていたが、平日でも混み混みとの情報を得て変更。南北に連なる八ヶ岳を東西方向で横断してみようと、まだ歩いたことのなかった船山十字路から西岳に登り、遠い昔に下ったはずだが全く記憶にない天女山へ抜けてみよう。紅葉時期だがこのコースなら静かに歩けると、散歩気分で出かけた。思った通り急登はほぼないが、登りも下りも結構長い坂道で、予想外に疲労した。低温順化も目的だったが、台風の影響か暑かった。人はノロシバの先から数パーティーと静けさは予想通りだった。

 

旧図の昭和21年図から登山道が爆増している理由(推定)

日本山岳会が明治38年に作られていて、近代登山の黎明期にあたる。剣岳に三角点を置いたのも明治40年だったので、この時期に積極的な調査が行われて道も開拓された。この流れは大正末期になり登山が一般大衆化してますます道の開拓が行われたが、日清戦争が始まってから地図が機密阿扱いになり、太平洋戦争(日米戦争)で負けるまで続いた。敗戦の翌年に発行された昭和21年地図からすべての登山道か表記され、いっぺんに増えたように見えた。

 

旭小屋と阿弥陀岳南陵の登山道

現在バリエーションルートの阿弥陀岳南陵は昭和51年図(1976)には一般登山道だった。この頃の地図はほぼ現在と同じ登山道がある。旭小屋があり、林道が小屋奥まで延びている。6年後の昭和57年図には船山十字路から西岳への道につながる現在の道が出来た。同時に南陵の道は立場山までとなってその先が消滅している。維持管理が難しかったかもしれない。旭小屋は南陵登山道と共に栄えた小屋かもしれず、西岳に道をつないでみたものの、富士見高原側にすでに道があったので流行らなかったのだろう。と想像してみた。

次の東西縦走は、明治43年図にある御小屋尾根と、夏沢鉱泉から赤岳の稜線道をつないでみようかな。