2024年12月3日 晴れ
久々に歩きトレーニング+ライド。目的地は越生町黒山三滝南の大平山(おおひらさん)にある「山本開山権大僧都栄円和尚」の供養塔。黒山三滝から徒歩出発。
黒山三滝への道 迎え滝付近の紅葉が見ごろ
黒山三滝への道 地蔵前から
地蔵、比較的新しい感じ
修験が修行したであろう滝
女滝の脇から山道に入り振り返る。滝の手前にある堂ではお勤めを行っている様子
傘杉峠の分岐を役の行者方向に進む(天狗滝からの道と合流していた)
山頂手前の開けた広場の奥に行者像、5人の行者?がほら貝を吹き、何かを唱えお参りしていた。修験道の方々だろうか、若者から中年ぐらい。
山頂は行者像の脇から奥に入るとすぐ
平成30年(2018年)京都聖護院門跡(館長)御門生(弟子)命婦人宮城明怜様お手植えの桜(お勤めが終わってから役行者前の広場に戻った)役行者と前鬼・後鬼(元治二年/1865年造立 平成18年/2006年損壊し翌平成19年に聖護院五十二世門主宮城泰年師により修復開眼式が執り行われた)
左にはどなた?⇒阿弥陀菩薩の一尊の勢至菩薩でした(生越の歴史Ⅰ)
右脇に供養塔、右から3番目が山本坊開山の栄円和尚。応永20年/1413年造立
平成9年/1997年京都の本山修験宗総本山の聖護院門跡、第五十一世門主加来徳泉師一行が大平山に登拝したことと、「越生聖護院門跡講」が設立されたこと、役行者像修復などか記されている帰路は笹郷集落への道に進む。顔振峠道との分岐を左に(黒山バス停と記されているが?、すぐ先の小さな白い道標の黒山バス停方向に左折)
良く踏まれた道国土地理院地図に笹郷と書かれている付近の分岐が現在はなく、南下しているが、あえて北上の道を探して下ると道形はあるが廃道化している(こっちが旧道ではないか)
途中に廃屋(TVアンテナの残骸あり)
日本料理屋の塀際に出る村内道に出たところの正面に古い石像(やはりこっちが旧道だから?)
少し先にももう一体(こちらの方がやや新しい感じ)
村内道は川沿いの気持ちの良い道、三滝方面に(突き当りが林道笹郷線)
平九郎自決の地脇の笹郷線に出た。先にバス回転所
三滝入り口にも古い石碑(八雲神社または天王社がここにあり、道路工事で消滅)
ログ
右上の鳥居マークが黒山熊野神社。坊や堂があったのは大平山のようで、「武蔵国大平山略図に薬師堂・愛宕・天王・蔵王堂・不動堂・長寿寺・覚浄院・東学院などが記されています。水行を行う滝を中心に、様々な様々な信仰施設が記されていることが見て取れる」とあるので、今の熊野神社が中心ではなかったような感じがする。役行者像の前の大きな広場は自然地形ではなく造成されたものではなかろうか。そしてそこには当時大きな堂があったのではないか。円栄はどこに居住していたのだろうか。供養塔の写真には壊れかけを含めて5塔ある。西戸に移転するまで200年余り、この大平山のどこかに静かに眠っているのだろうか。当時は土葬のはずなので、供養塔5塔の間隔からその下ではないだろう。もしかしたら役行者像造立の際にここに集められたのかもしれないと、勝手な想像をする。「武蔵国大平山略図」を見てみたい。
山本坊開山:明徳二年(1391年)開祖・栄円
栄円供養塔造立:応永20年/1413年(山本坊開山から22年後)
西戸に移転※-1:1594年頃(山本坊開山から203年後)
役行者像造立:元治二年/1865年(供養塔造立から452年後)
※-1:西戸に移転後の黒山の地は「生越山本坊」となり栄えていた
:西戸は現在の毛呂山町、山本坊歴代の墓が残っている
山本坊の移転はその4年前の1590年に徳川家康が江戸に入ったことと関係があるのだろうか。
参考資料:越生町HP,越生町生越浪漫No.133、聖護院門跡HP
役の行者像にお参りするいきさつは当ブログのリンク「山好きのクロスバイク日誌」をご覧ください。