新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

日和田山の古道と神社の謎

2021年5月15日 曇り

先日散歩した廃寺跡について調べていたら、「新編武蔵風土記稿」に日和田山の記述と挿絵があった。日和田山の不思議に少し光が差した。 日和田山絵図.jpg 興味のポイントは2つあり、一つは山頂直下の建物⑦。もう一つは、今はない登山道が描かれている(挿絵追記登山道2:直接山頂に達している)「新編武蔵風土記稿 国立国会図書館デジタルコレクション」をコピペしました。問題があれば連絡ください。

歩いたログ ログ.jpg 登山道は①⇒②⇒④⇒⑤⇒⑥と思われる。現状の道は②⇒⑨につながっている。唯一見つけた仕事道を右(③)に辿ったが、途中で見失い顕著な踏み跡は見つけられなかった。ただし④⇒⑤⇒⑥ははっきりした踏み跡があった。

登山口 ①の場所 IMG_9974登山口2.JPG

登山道 IMG_9977しっかり踏まれた道.JPG

尾根上 ②の場所IMG_9979尾根に出る.JPG

分岐 IMG_9980分岐になる.JPG

右の踏み跡 ③の場所IMG_9981右の踏み跡へ.JPG

東峰山頂 ④の場所(日和田山は双耳峰だが、絵では表現されていない)IMG_9982東峰.JPG

道しるべではないかと思われる岩 ⑤の場所(まっすぐは山頂、左は山頂下広場) IMG_9985山頂と⑤の分岐.JPG

山頂の宝篋印塔 ⑥の場所IMG_9988山頂の宝篋印塔.JPG

山頂直下の広場、⑦の場所 絵には建物が描かれている。IMG_9992山頂下広場.JPG

金刀比羅神社 ⑧の場所IMG_9992000金刀比羅神社から鳥居.JPG

崩れた宝篋印塔IMG_99920001石塔.JPG 女坂途中 ⑨の場所には岩場の上に壊れた石塔?があり、絵の⑨の場所ではないかと想像。絵では至る道が描かれていない。

このすぐ下にも広場がある IMG_99920004石塔前広場.JPG (東屋のようなものがあった可能性)写真右上が上記写真の岩場

男坂と女坂の分岐にある石碑。⑩の場所  IMG_99920005男坂女坂文亀.JPG 文字が彫ってあるが読めるのは「神」の一字。これが分岐を表すものなら、絵が間違っていて、登山道2は無かったかもしれない。事実東峰までの間、鳥居や道しるべ的なものがなく、道幅も狭かった。絵の当時は雑木林で、現在は杉が植林されたので参道を整理してしまったのかもしれない。それに、途中に神社があるのに寄らない道を造るだろうか。挿絵が間違っている可能性があるのだろうか。

男坂方面に行って滝不動を確認 ⑪の場所 IMG_99920010手水桶と滝不動.JPG

 再び戻って一の鳥居と先ほどの石碑IMG_99920018一の鳥居.JPG

休憩所のある現在の登山口は右に下る。IMG_99920019.JPG 今回は左に下る。正面は水道タンク。旧登山道は水道タンク建設により移動したかもしれない。

民家脇の石碑に出る。⑫の場所  IMG_99920020石碑.JPG この石碑は登山道の入り口を示すものではないのか? 「新編武蔵風土記稿」には、日和田山中腹の金刀比羅神社の名前が出てこない。日和田山については秣場で、4か村(高麗本郷、栗坪、梅原、清流)の入会地であると記してあるが、山頂の宝篋印塔や挿絵の建物などについては触れられていない。入会の四か村の項にも記されていない。ただ宝篋印塔には文字が刻まれていて、享保十年(1725年)に聖天院の僧が立てた事が分かるが、聖天院の項にも何も書かれていない。 金毘羅大権現は調べると面白い。山岳信仰修験道が融合した神仏習合の神様で、天竺から来たインバウンドだ(たぶん居ついたので正しくは帰化神か)。真言宗と関係が深い。聖天院は1345年に法相宗から真言宗に改宗しているところを考えると、神社は宝篋印塔と同時期に立てられたのではないかと思えてくる。当時の仏は神より上(神の悩みを仏が聴く)だったらしいので、山腹に神社、山頂に宝篋印塔があってもおかしくはない。「新風土記」の挿絵の建物等は修験道の場として、聖天院が1725年頃立てたのだろうか。そうだとすれば、クライミングの練習場の男岩と女岩も、修験道の谷覗きが行われ、宿谷の滝あたりで滝行をしていたのだろうか。 以前から山頂前の広場については何か建物があったのではないかと想像していたので、挿絵にはっきり描かれていたのを見た時はちょっと興奮した。 現在金刀比羅神社の管理は地元の氏子が行っている。社や鳥居の修繕も氏子持ち出しで行っているようなので、日和田山を訪れたならば、お賽銭をお願いします。 ついでだが、鍵盤断裂の肩、まだ夜中に痛む。腕が上がりきらないので駐車場のチケットが取りにくく、無理をするとかなり痛むので車では行けない場所だ。