新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

日和田山の金毘羅神社を推理する

2021年5月21日(追記5月23日)

山に行けない日がもう半年、日ごろあまり気にならない事が気になってくる。その一つが日和田山中腹の神社と山頂の仏塔。神と仏

金刀比羅神社KIF_0062.JPG

和田山に登れば必ずお参りさせていただく金刀比羅神社、由緒はまったく不明だ。そこで調べた。金刀比羅神社は古くは金毘羅大権現という神仏習合の権現様で、8世紀の初頭に誕生したようだ。その発祥は讃岐国象頭山松尾寺金光院らしい。松尾寺の古い資料は長曽我部による讃岐国侵攻で多く焼失したとあるので信ぴょう性はわからないが、1573年には金毘羅堂が建立されたらしい。

山頂の宝篋印塔PC257756.JPG

一方山頂の宝篋印塔(仏塔の一種)、古代からの神がいる山を仏教が乗っ取りか?神社と違いこちらは刻字から。「享保十年」が読み取れる。意外と新しく江戸時代中期の1726年。聖天院35世が建立した事が分かる

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聖天院によれば、高麗山聖天院勝楽寺は、遠く奈良時代(西暦751年)に創建された真言宗智山派の古刹です。とあるが、当初は若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊とした法相宗だった。1580年に真言宗に改宗している。

 

つまりこう考えられないか(素人個人の思い込みです)

金毘羅大権現真言宗から発している。起源は松尾寺で1573年。一方聖天院が真言宗に改宗したのが1580年。改宗後おおよそ150年後の1726年に日和田山の山頂に宝篋印塔を建立し、同時に山腹には金毘羅大権現を祭り、日和田山全体を修験道の道場とした。その様子は、『新編武蔵風土記稿』の挿絵のごとくであった。(『新編武蔵風土記稿』調査は1804年から1829年なので挿絵は建立から約80年後~100年後の姿になる)。明治(1868年)になって廃仏毀釈などの通達で日和田山では金毘羅大権現から仏教を除き、金刀比羅神社とし、管理を地元の日向集落に預けた。(聖天院は神を日和田山に追い出し寺となった)

 

この日向集落は、はもともと『聖天社』が鎭守だったが、失われたと『新編武蔵風土記稿』にあるので、しばらく鎭守がなかったことになる。明治以降に『金刀比羅神社』を鎭守として聖天院から引き継いでもさほどおかしなことではないと思うがどうであろうか。

 

不思議なことに『新編武蔵風土記稿』には日和田山の『金刀比羅神社』の記載がない。日和田山は高麗本郷、栗坪、梅原、清流四村の入会(共同管理のまぐさ場)地とあるので、その記載を確認したが金刀比羅神社についての記載がないのである。社寺は詳しき記載しているのにこれは不思議だ。

 

『新編武蔵風土記稿』を読んでみて、居住地の歴史を見直してみるのもなかなか面白いものだと思った。歴史好きではないし知識もないが、ネット時代は便利なもので、知ったか歴史推理が楽しめる。

 

参考資料

・ウイキペディア

・新編武蔵風土記稿. 巻之182/国立国会図書館デジタルコレクション

・聖天院HP

日高市HP

日高市史 原始・古代資料編

 

追記 2021年5月23日

日高市史中世資料編』に金刀比羅神社を発見した。

「高山の不動尊③{③は資料番号}高指無線中継所のすぐ下にあったという。布目瓦が出る。『埼玉の神社』の「金毘羅神社」の項に「氏子の間にも、昔、日和田山の中腹に修験の寺がありその寺が(金刀比羅)神社を管理していたという口碑がある事から、あるいは日和田山を霊山として開いたと思われるこの寺が、当社を勧請したのであろうか」」とある。

 

この「修験の寺」が『高山の不動』で、金刀比羅神社を管理していたと読めるが、『新編武蔵野風土記稿』の日和田山の挿絵の神社の上に描かれた建物である可能性もあるのではないかと思う。

 

和田山から一番近い寺は安洲寺だが、『新編武蔵風土記稿』に「東光山と号す臨済宗栗坪村勝音寺末」とあり修験ではない。また安洲寺は高指山から物見山に至る稜線に、駒高の鎭守「子の社」を持っている。

 

さらに10kmほど秩父側に進めば「関八州見晴らし台」の南斜面に「高山不動」がある。真言宗智山派の「常楽寺」の通称で「修験道当山派」。常楽寺の創建は平安末期{1100年代か}とみられている。一方聖天院が修験となったのが1345年と言われていて「本山派」。宝篋印塔は1725年建立。当山派と本山派が日和田山を取り合ったなどということがあれば興味深いが、結果として宝篋印塔が聖天院の物であり、距離的要素を考えても日和田山中腹の修験の寺は聖天院末の可能性が高いと思うがどうだろうか。

 

高指無線中継所下の布目瓦の出た場所は、高指山と日和田山の谷沿いに東側の清流地区から道が付いている。稜線近くは旧道と異なっているが、古い地図ではまさしく布目瓦が出た所に上がっている。そして清流の登り口の清流川対岸には「高岡の廃寺」の遺跡がある。高岡廃寺からも布目の瓦が出土している。

 

高指無線中継所は廃止されて土地は日高市が取得した。アンテナ類は撤去されたが、建物本体はまだ残されている。

 

参考資料

日高市史中世資料編

・ウイキペディア 修験道

・ウイキペディア 常楽院

国土地理院旧図昭和27年8月30日発行