新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

古地図の日和田山登山道と如意輪堂の不思議

2021年5月26日 晴れ

まだ自転車に乗れないので徒歩で日和田山に行っている。今日はしつこく『新編武蔵風土記稿』の登山道を探してみた。三度目の正直となるか?

今回のログ 現代地図.jpg

 登山口は清流のここからIMG_9974.JPG 清流から直接山頂に行くルートで『新編武蔵風土記稿』の登山道に近いルート。

一旦女坂の手すり場の下に出る。(右上奥に手すりがあるのだが見えない?) IMG_0004.JPG 手すりの脇に崩壊した宝篋印塔がある。 IMG_0001.JPG

手すりを過ぎてすぐに右に入る踏み跡がある。P5267814.JPG すっかり藪っぽくなったが数年前までよく利用した。途中二俣があるが右に

すると、東の山頂とのコル手前のこの石の前に。 P5267815.JPG

石の後ろが稜線から山頂への道(一昨日蛇に遭う)P5267816.JPG 左に行くと、さっきの二股を左に行った道と合流して、山頂下の広場に出る(『新編武蔵風土記稿』の挿絵に建物が描かれていると思われる地点)

旧図を見れば IMG_2972.jpg 今日のルートは『日高市史中世資料編』の地図のルートに近いと思う。日高市史の発行は平成7年だが、もっと古い地図のような気がする。面白いことに、山頂から金刀比羅神社への道が無い。

 

さらに古い大正時代は IMG_2968.jpg国土地理院二万五千分一地形図八王子近傍六号(共十面)東京九号川越ノ四 大正十二年測量」の日和田山近辺。登山道は今の女坂ルートとほぼ同じと思われる。

現在の登山口のトイレや東屋わきにある地蔵様。 IMG_0051.JPG 一番左は無縫塔(主に坊様のお墓)にみえる。登山道の入り口のしるしにしては奇妙だと思っていたが、大正の地図には「郷本麗高」の「麗」の字の上に「卍」マークがある。寺があったのだ。今は跡形もなく、ハイキングの休憩所に整備されている。この寺はいったい、いつ、どこに行ったのだろうか。金刀比羅神社と関係があるのだろうか。 大正の地図にはもう一つ、右上の「岡高上」の「岡」の下のほう(点線の道に囲まれた三角の中)に「⛩」がある(今の地図にはない)。そのあたりの地名が「幸神前」となっているのは偶然か。

この石像の背景の森あたりが「幸神前」の「⛩」印跡 IMG_9844.JPG (行ってみたら痕跡がありそうだ) さらに気になる所がもう一つ 聖天院から日和田山に行くかわせみ街道脇にある「卍」。これは「如意輪堂」。「日高市史」に記載がなく『新編武蔵風土記稿』にも記載がない。

如意輪堂 IMG_9959.JPG

お地蔵様IMG_9966.JPG お堂前の石像の読める日付を見てみたら、5体の内、真ん中の3体の年代は左から享保九年(1725年)、享和4年(1804年)、元文(1736年から1741年)となっている。『新編武蔵風土記稿』は1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成したので、これら地蔵様は存在している。お堂の基礎はコンクリート造でお堂も新しいが、上記大正の地図には「卍」がある。高麗坂東三十三観音の31番。詳細はわからないが「首都圏・東京都の寺社情報サイト 猫の足跡」さんのHPによれば「高麗三十三ヶ所霊場は、旧高麗郷にある観音像を巡礼する観音霊場で、開創者は不詳ながら、享保年間(1716-1736)に創設されたと伝えられます。」とあります。いったいいつ頃から存在し、なぜ『新編武蔵風土記稿』に登場しないのだろうか。不思議。

そういえば日和田山金刀比羅神社も出てこない。 今日もおおむね13kmを歩いた。たった3時間30分ほどで最高標高が305mであったのに、すこぶるくたびれた。ほんと、山に復帰できるのだろうか? 右腕はまだ力が入らないし痒い背中がかけない。