新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

毛呂薬王寺を訪ねる

2022年12月12日 晴れ

本日も鎌北湖往復 距離17.15 km 獲得標高225 m タイム52分 と先日より少なめ。歩行より自転車の方が腰への負担が少ない事が実感できる。

 

今日も残った鎌北湖の秋  PC129733.JPG

 

本日は、気になっていた大寺廃寺のすぐ北にある寺に行ってみた。大寺廃寺との関連がないかどうかが気になって。

 

小さな尾根の南斜面にひっそり、行き止まりの袋小路のような道に面して、本堂と住まいが接して PC129737.JPG

こじんまりした本堂、広くはないがよく手入れがされた境内は一歩踏み込むと心地よかったPC129738.JPG

振り返ってみれば、浅い谷(葛川支流)越に大寺廃寺跡の尾根が間近に望める。今もあればお堂や庫裏が見えるだろうPC129739.JPG

西側は一段高くなっている。手前に池があり鯉が泳ぐ。墓石の背後に草生した広場PC129740.JPG

広場は旧本堂があったが文化五年(1808年)に火災で焼失したと石碑に記されている。 PC129746.JPG

旧本堂から前面道路に出て戻る途中にあった石碑 PC129742.JPG

薬王寺について 新編武蔵風土記稿には(仮名はひらがなに、漢字の一部は新字に代えた) 「天台宗仙波中院の門徒薬王山千手院と号す本尊薬師を安せり」とあるのみ。在所については「入間郡葛貫村(くずぬきむら)」。 仙波中院とは 天台宗別格本山星野山 無量寿寺 中院のHPによれば「天長7年(830)伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が、芳道仙人の古跡であった仙波の霊場天皇に奏上。あらためて一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜りました。この星野山無量寿寺仏地院が中院です」とある。(埼玉県川越市小仙波町) またHPでは「永仁4年(1296)中興祖師尊海は天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべて仙波の仏地院に付属し、関東天台の本山の勅許を得ました。」とあるので、580余ヶ寺の文献があればその由緒が分かるかもしれないが、現時点では何もわからない。 高麗郡入間郡の境界の話(大寺廃寺の当時の所在) 新編武蔵風土記稿の「葛貫村」の項には 「大寺 南方にある唱なりこれも彼寺跡ゆへの名なるへけれと倞へなし」とあり廃寺跡が入間郡領であることが分かる。また、隣の入間郡宿谷村の項に「小名 粕入 粕坂 横峯」とあることから、高麗郡入間郡の境が粕坂の南にあった事が分かる。物見山の東尾根コースのカチ坂峠のカチ坂は粕坂。 新編武蔵風土記稿は1830年に完成している。高麗郡が716年に建郡されたときは、現日高市の一部の狭い範囲(飯能にももう一か所あった)であり、その後新編武蔵風土記稿にみられる範囲まで拡張していったとみられる。現に新編武蔵風土記稿の記述に「権現堂村」「大谷木村」「滝の入村」は入間郡の項に記載されているにもかかわらず「高麗領に属す」と記載されている。大寺廃寺の「葛貫村」が元高麗郡であったという記載はない。 大寺廃寺は高麗氏の氏寺であったと、出土したわずかな瓦から判断されているが、隣の縄張りに氏寺を建てるといった考えが素人ながら納得がいかないところ。 なお「大寺廃寺」の「大寺」は現在の地名(字名)が「大寺(上大寺、下大寺)」で、廃寺の規模ではない。また新編武蔵風土記稿の地名に「大寺」は見当たらない。 今回も登山のブログではなくなってしまったが、登山できないのだからしかたないとご理解をお願いします。年取ると神社仏閣などあちらに近い事柄に魅かれる。そもそも山に登る歴史の発端は信仰だからまあ無関係でもないとこじつけてみる。