2021年5月28日 曇り時々晴れ
腱板断裂の完治予定に合わせて、なまった脚を復活させるために日高市の旧跡を訪ねまわっている。今日は栗坪地区にある「塚」を探しに行ってみた。
ログは猿田(やえんだ)、栗坪、梅原地区がメイン。 興味の対象は栗坪地区にある神明社と塚。日高市史中世資料編には、明神社の南に3か所の塚があると記されている。字(あざ)向山(高麗中学校南東)3基、字初霧(ゴルフ場内)1基、字高根(ゴルフ場内)11基の15基。
高麗川神社は工事中 猿田の高麗川神社は社殿が持ち上げられていて、基礎の修理中でお参りできず。樹齢300年のタブノキは立派
正福寺の境内東にある社、塚のように見える 南から見た「じょうばづか」と思われる場所。 『日高市史』に「じょうばづか(字新田)えらい人をいけた場所という」とある図示の場所。
西から見た「じょうばづか」と思われる場所。崩れた楕円形で塚かどうかわからない。
すぐに行き止まり。 ゴルフ場ができてしまっている。『日高市史』の挿絵よりゴルフ場が拡張しており、塚はゴルフ場に飲み込まれた。破壊されたかも。
宮沢への道入り口から見た日和田山。 暗い山道から抜けると正面に広がるのびやかな景色
字向山には3基の「塚」 ゴルフ場外なので期待ができる。高麗中学校脇から挿絵の場所を目指すが、お目当ての場所はこんな感じで、藪をうろうろしてみたが塚らしきものがない
諦めて八坂神社側に下る途中で、見ようによっては塚に見えないか? 中学校裏山の挿絵の位置よりほんの少し(50mほど)西寄り
さらに200m位歩くと満蔵寺と地蔵堂。墓地の東の山道を辿ると祠が 『寺院明細帳』に「地蔵堂の傍らに山王塚というあり ・・・ 年暦不詳廃絶すという」とあるが、少し離れ過ぎか。 本日もっとも見たかった明神社。『日高市史』によれば 「明神社(宇越毛 新井家)創立年代不詳『風土記稿』「社地二十歩許の杉森にて畠中にあり古此所に高麗王の末裔たるもの居住せし所と伝ヘリ、其名を伝えず、万福寺の持ちなり」」とある。{二十歩は長さなら約66m、面積なら66m角4356平方メートル、1320坪}
この森(明神山)の中に明神社があるのだろうが、私邸内のようで入れない 写真左の小山が明神社のある明神山。右は「塚」を探した尾根筋
明神山西側。小高くなっているのは土塁 明神山東側
西北を見ると明神山の森の右に日和田山、北に聖天院と高麗神社 さほど遠くない 明神山は土塁や沢の水路に囲まれた城のようだ。大きな敷地の真ん中にいくつかの家屋があり、周囲は広い畑に囲まれている。「王」が住むにふさわしい場所ではないか?そして、南の丘陵に「塚」があるという。この土塁(発見できなかったが)は墓ではないのかと想像してしまう。聖天院には高麗王の廟がある、廟に埋葬されたにしては小さいと感じてしまう。高麗神社の裏山には奥津城がある。奥津城はグーグルアースで確認するとまさしく「塚」、ただ高句麗の埋葬に使われる「塚」より規模はずいぶん小さい。そして明神山南の「塚」、「高麗神社」と「明神山」と「塚」が南北に一直線上にある。この南の丘は今でもたくさんの墓が各家ごとに点々と配置されている場所なのだ。果たしてどんな塚だったのか、ゴルフ場が恨めしい。{ウイキペディアより:『続日本紀』大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えたとの記述がある。高外国の王族の子孫を意味する姓(カバネ)である王(こにきし)の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自不詳。}