2023年7月19日 曇り→雨→豪雨→晴れ
三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年) の集落の遺跡。
紀元前7000年~4000年はもっとも温暖な縄文海進の時期。この遺跡はもっとも温暖な時期から寒冷化に向かう時期に存在していた。縄文人の人口減少は紀元前2300年ごろから始まっているといわれているので、寒冷化による環境変化とそれによる人口減少によって、この村が見捨てられたのかもしれない。津波が原因かもと思ったが、三陸地方の巨大津波は紀元前4000年頃 と紀元前1500年頃 に有ったらしい(ウイキペディア)しかし、遺跡のあった時代とは前後にずれているので、これが原因ではなさそうだ。
西側から見た遺跡中心方向
遺跡西側の土坑墓、村の反対側の東側にもある
色々な形状の屋根の竪穴住居。詳細な構造が分かっていないので、いろんな形状で作られているのだろう。屋根部分は科学的想像の産物であることに注意が必要だろう
入れるものは中に入ってみた。入り口が狭すぎるものがある。中に入ると饐えた匂いが強くする。屋根材の茅や木材が発酵しているようだ。実際に定期的に炉を使って燻す必要があるだろう。
内部、中心部の炉の跡、石囲いがないのでこの住居は復元された模造品かも
中から入口を見る。屋根が地面に接する部分は腐りやすいので、もっと工夫されていたかもしれないなどと考えてしまう。
形状が色々あるのは、実際の形状が分かっていないからかもしれない。
掘立柱建物は内部に炉がない事や、住居のような掘り下げがなかったから高床式と想像しているのだろか
上の写真のやぐらの右にドーム状の建物があるが、本来のやぐらの位置で掘立柱保存用の建物。
掘立柱建物の復元。屋根もあったらしいが見解が一致しないので作られていないとの事。地中の柱から上は無かったので、柱の高さや3層構造だった事をどう知ったのだろうか。
実際の柱の跡(ドーム状の建物内部)
穴の中に木材が残っている。正確に分かるのは地中内のみ
大型竪穴建物、屋根の葺き方は違うが壁がある事はアイヌのチセと同じ構造だ。なぜ大型建物には壁を作ったのだろうか、壁を知っていたなら、竪穴式住居に壁が無いのはなぜだろう。壁が10cmでもあったほうが雨仕舞は格段に良かったはずだが
大型竪穴建物の内部、この高さが必要な理由は何だろうか
縄文時代の繁栄期は温暖化の時期と一致する。結果的に縄文人にとって温暖化は恩恵だったのではなかろうか。気候への影響要素(例えばヒマラヤの高さ、偏西風など)により今後予想される温暖化と同じかどうかわからないが、多くの縄文遺跡は小高い丘上に造られているのはそのためではないか、水辺の方が生活しやすいはずなのに。また壁をつくらなかったのも荒ぶる天候への備えだったのかもしれない。(山岳テントは、壁のある家型から、ドーム型に進化している)
それを知らない大陸から稲をもたらした人々(必ずしも弥生人とは限らない)が田を管理するために沖積平野に住む選択をした結果、その末裔たちがそこに住み、今も水害に対応しきれていないといったら言い過ぎか。
遺跡を見た後は先を急いで高速に乗るが、気になっていた餅屋に寄るため一関で降りて探す。一ノ関駅の西側にその店があった。三彩館ふじせい
駅の駐車場の真ん前だった。ラストオーダー7分前に滑り込む。頼んだのはこれ
お品書き
今回の旅行での走行距離は2293km、日平均では約327kmとなった。
北海道は走っても景色が変わらないというけれど、似たような景色ではあるがそれぞれ微妙に違っていて、飽きることはなかった。襟裳岬と積丹半島に行けなかったので、いずれまた回ってみたい。室蘭から洞爺湖町の間に縄文貝塚遺跡が有るのだが、うっかりミスで見損なったのは痛恨。