新緑のこもれび

日和田山や奥武蔵、時に遠い山をあるいた足跡

仙台の多賀城史跡

2023年11月09

歩けなくなると興味が出るのが昔の事、今は「蝦夷」。東北の蝦夷縄文人の末裔だと思っていて、縄文びいきの身としては蝦夷とは縄文人の末裔であってほしいと思っている。その蝦夷の地を侵略したのが大和朝廷多賀城(仙台)を足掛かりに胆沢(岩手県奥州市)の阿弖流為を攻め滅ぼして、胆沢に城(胆沢城)を築いて支配が確定してゆく。もともと東北は日本海側から蝦夷を抱き込んだり攻めたりして大和が進行し、青森から南下している。陸路はもちろん南から北上していて多賀城は当時の最北端。最後まで抵抗したのが胆沢付近にいた阿弖流為たちだっだ。胆沢は縄文人の末裔の最後の地。

多賀城の官司の道、政庁南大路跡に立ってみた。現代の高層ビルがせせこましく感じるIMG_1989

多賀城政庁復元模型IMG_1995

手前から、南門と翼廊、その後ろに正殿、正殿に隠れて後殿、その後ろに築地塀には東・西・北殿。左右にはそれぞれ東西の脇殿と楼がある。南門と正殿の間に石敷きの庭

門の基礎てまえから正殿方向IMG_1996

南門から振り返る。正面の建物は修復中の外郭南門IMG_1997

築地塀の北殿から後殿、正殿の基礎IMG_2011

道路の東側、役所建物跡にも建物を再現中IMG_2012

少し離れた場所にある廃寺跡IMG_1982

塔の跡

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塔の通し柱の穴のある基礎の石から金堂跡IMG_1962

神亀元年(724年)、大野東人(おおののあずまひと)によって創建された多賀城(跡)。この時点では蝦夷はまだ征服され切っていなかった。弥生時代が終わって400年も経過している時代の話だ。縄文時代弥生時代の区分とは何なのかわからなくなってくる。

東北にも弥生時代の土器が出土している。人とともに伝わったのか交易の産物か調べていないが、岩手県北上川流域、特に阿弖流為が居たと思われる胆沢近辺は弥生式土器出土の空白地帯になっているようだ。だが胆沢には角塚古墳があり、最北端の前方後円墳と呼ばれている。5世紀~6世紀に構築されたそうで、阿弖流為の38年戦争から200年~300年も前の物。この時代、「倭王武の上表文」に「東は毛人55カ国を征し」とあるそうで、古墳時代のある時期、胆沢は朝廷支配が及んだ可能性がある。一旦は大和に従ったか協力関係にあったが、やがて蝦夷の支配地に戻ったのだろう。

阿弖流為亡き後、大和朝廷の支配が及ぶと、移民政策がとられているので、蝦夷は徐々に移民と同化していったのだろうか。

そういえば、もののけ姫のアシタカは「東と北の間より」来たといっている。しかしもののけ姫の舞台は室町時代(1336年 – 1573年)という事になっている。阿弖流為802年に処刑されているので、その500年後ということになり、アシタカの住んでいたような地域はすでになかったか、山奥のマタギ集落の様な所になるのだろうか。

東北の縄文人の流れをくむ蝦夷(えみし)と北海道にいるアイヌは元は別の種族だが、北海道を蝦夷(えぞ)と呼ぶ事から、混乱があるのではないか。関東の地名にもアイヌ語語源説があるが、もしかしたら縄文人語かもしれない。また方言についてはなまったのではなく、もともとの民族の言葉が大和言葉と融合したのかもしれない。と考えるのは飛躍のし過ぎだろうか。もともとの民族、それは縄文人だ。

縄文に関する興味は尽きない。(縄文人語に関する研究が進んでいるのだそうだ)

登山と関係ない文を長々書いてすみません。